日々の雑感

私が毎日見たり聞いたりしたものに対して思ったことを書き連ねていきます。

福岡に帰省したついでに太宰府天満宮へ初詣に行った。そしてラーメンをしこたま食べた。

 

久しぶりの福岡

東京へ出てから早数年、同じく東京に出てきた地元の友達と遊ぶことはあっても、それ以外ではもう故郷のことを思い出すことはめっきり少なくなった。

一言ラーメンといえば豚骨だったのも、最近では近所のラーメン二郎が思い浮かぶ。去年はお盆や正月にも帰れなかった。遊ぶ場所も新宿なんかですっかり方言も抜けてしまった私だが、今年は年末年始空いていたので帰省を決めた。完全には東京に染まりきらないぞ、という福岡人としてのせめてものプライドだった。それか、恋人もいないので家族が恋しくなったのかもしれない。

 

いざ新幹線へ

12月29日、少し用事があったので新横浜から博多まで向かう。所要時間は約5時間だ。痔持ちの私には少々不安な時間だが、そこは我慢するしかない。

出発時刻は19時。到着は24時ごろになる。用事が終わって新横浜に着いたのが16時ごろで、まだ新幹線まで3時間もあった。最近ダイエットをしているので、あんまり遅い時間にご飯を食べたくない。私は新横浜で夕食を取ることにした。

布製の赤いスーツケース片手に新横浜の街を散策していると、一件の中華料理屋が見えた。やはり横浜といえば家系か中華だろう、と考え、そこを候補に入れつつ更に探検を続けた。

1時間ほど経って、粗方見終えたがあまりピンと来るものがない。時間も迫ってるし、スーツケースを引きずって手も疲れてきた。私は先程の中華に入ることにした。

テーブルが縦に5つ並んだ店内には数名の先客がいたが、満席というほどでもない。そのうちの一つに座って、オススメだというネギがいっぱい入ったチャーシュー麺とチャーハンのセットを頼んだ。

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ネギの風味がちょっとだけキツかったが、それでも美味しくいただけた。

腹も満たしたところで時間は18時30分になっていた。案外と余裕がなかったので急いで駅に向かい、新幹線に乗り込んだ。

 

家族との再会

博多まで乗車する客は意外と少なく、新横浜からのものが名古屋、京都、広島と次々降りていく中、私はシートの上で課題の本を読んでいた。小倉に着く、とアナウンスがあった頃、読み疲れた私は顔を上げて周りを見渡した。車両にはほんの数人しか残っておらず、それぞれが疲れた顔で休んでいた。

あと少しで博多だが、ここからが長い。読書をやめてAmazonプライムビデオで相席食堂を見始めたが、2話分も見ることができた。

やっと博多に着いたのが23時54分。事前に家族には連絡しておいたので車で駅まで迎えにきてくれていた。しかし、車が見当たらない。仕方がないので父に電話をかけると、懐かしい方言が聞こえてきた。父のナビゲーションでなんとか車を見つけたが、それは私の知らない車だった。いつの間に買い換えたのだろうか、いやしかしこれじゃ見つかるはずもなかった。

父と兄がいた。父は少し老けた気がする。兄は大学卒業後福岡で就職した。在学中はたまに兄の家に遊びに行っていたので、兄が実家に戻ってからは旅行先のホテルが一個なくなったなぐらいにしか考えていなかったが、いざ会うと嬉しく話が弾んだ。

家に帰り着いた頃にはもう12時を回っていて30日になっていた。母が起きて待っていてくれて、顔を見せるだけ見せた。母は相変わらずだった。座りっぱなしで疲れていたが、お風呂に入り、兄と2人で夕食に作ってあったおでんを食べた。母の料理を食べるのも久しぶりだ。結局寝たのは3時ごろになった。

 

実家へ帰って

翌日は母方の祖父の家に行き餅つきを手伝った。私が生まれるずっと前から祖父の家では年末に杵と臼、それから機械を使って餅をつき、それを千切って丸めるのが習わしだった。私はつく前の餅米で握ったおにぎりが好きだった。

久しぶりに会った祖父は少し痩せていた。もう歳も80近い。ただ、去年ガンを宣告されたという話を聞いていた割には元気にしていた。顔を見て安心した私は、テーブルの上に3つ置いてあったおにぎりのうち1つを手に取り頬張った。ほんのりと塩味が効いて、少し堅めに炊いたモチ米の甘味を引き立てる。

何年かぶりに餅をこねたが、やはり体に染み付いた動作は消えていなかった。

 

晦日太宰府

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西鉄太宰府駅

31日の夜、SASUKEを見ながら私は家族に太宰府天満宮へ初詣に行くことを話していた。太宰府天満宮は福岡のもっとも有名な観光名所の一つで、菅原道真を祀った神社だ。祀っている人が人なだけに、学問の御利益があるということで正月には全国から受験生たち(というよりその親)が集まってくる。

ご多聞に漏れず私も中学、大学受験の時には真剣にお参りさせて頂いた。まあその結果がどうだったのかはここで書くことではないが、私はご利益に関しては懐疑的であった。

しかし、ひとつのイベントとしての太宰府天満宮への初詣は好きで、福岡にいた時はほぼ毎年通っていた。

深夜2時ごろ兄と一緒に家を出た。父と母、妹は来ないらしい。西鉄電車の最寄駅から太宰府行きの電車へ乗ると、深夜だというのにそれなりに乗客がいた。

まだ暗いうちに太宰府へ着いた。人が多い。

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深夜3時ごろの舗道。この両側面に商店が並んでいる

こんなに人いたっけ、と思いながら列に並んだ。寒い。30日に購入した紺色の綿のジャケットを羽織って出て来たが、服装を間違えたかもしれない。2人してガタガタ震えながら待っていると、数十分ほどで境内に到着し、それからまた20数分待って、先頭までついた。太宰府天満宮の賽銭箱は巨大で、そこに巨万の富が毎年ぶち込まれている訳だが、私と兄もそれに倣って二礼二拍手一礼をした。pray for peace

今度はおみくじを引いた。太宰府のおみくじは特製で、朱色の紙に道真の歌が載っている。

私が引いたのは大吉。歌は「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ

道真の代表作と言っても過言ではない。にんまりしながら兄の方を見ると、兄は中吉を引いていた。

道真公を祀っといて昇進お守りはどうなんだと買ったお守りを眺めつつ向かったのは、屋台。今回1番楽しみにしていたものだ。極寒の中長時間立っていて体がとても冷えたので「はしまき」という薄いお好み焼きを割りばしに巻いた様な食べ物を選んだ。東京に出てから知ったのだが、これは九州にしかないらしい。

「故郷の味」を食べながら歩道を下っていると、梅ヶ枝餅の店に客が並んでいた。本来博多の人間は列に並ぶのが嫌いなはずだが、最近は変わってきているのだろうか。とにかく、美味しい匂いがして、腹が空いて来てしまった。しかし、並びたくない。そこで私は横道に入り、密かにリピートしているハンバーガー屋「筑紫庵」に行くことにした。期待通り空いていた。ここも道真公にあやかって合格バーガーなんてものを出している。

ここまで来たらラーメンも食べたくなって来て、私は駅近くの「暖慕」へ向かった。オーソドックスな九州豚骨で、一気に福岡に帰って来たという感じがした。

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変わっていくもの、変わらないもの

今回帰省して、福岡は、私の故郷は私を暖かく迎え入れてくれたのだろうか。バーガーやラーメン、うどんは変わらずに私の記憶のままでいてくれたが、街並みも、母校も、吸い込む空気も妙に新しくなっていて、よそよそしかった。たった数年といえど、侮れない。

1番驚いたのは、久しぶりに兄と話し、嬉しいながらも違和感を覚えずにはいられなかったこと。ずっとちゃらんぽらんに生きてきた兄弟だったから、適当な話をしていたのに、働き出して上司の話やお金の話が出てくる様になった。down-to-earthで、良いことなのだろうけど、私はまだ根無し草でいたいと思ってしまう。残り少ない自由な時間を意識するたびにその思いは強くなっていく。

兄も、それを含めた家族も変わってしまった。それに、私も変わってしまった。かつての様には振る舞えない。多分、今後もどんどん変わっていくだろう。だから、合わなくなってしまう。「タタール人の砂漠」 を思い出しながらそんな感慨に浸っていた。

私の記憶の中にあるあの故郷はもう帰ってこないのだろうか、そんなことを考えると胸が締め付けられるようだ。なんの責任も負わず、人生が楽しさだけで構成されていたあの時の、あの街も、あの人々も帰ってはこない。帰省したと言っても、「あの実家」に帰るのでなく、私が去ってからも時を刻み、人間関係を積み重ねてきた知らない実家に行くだけなのだ。そこに私の足跡はなく、家族は先に進んでしまっている。故郷は帰る場所ではないのだ。


MONO NO AWARE - Tokyo [Official Music Video]

しかし、私はそこに残った私の痕跡をなんとか見つけ出そうとしてしまう。道真が歌に詠んだように、梅の花だけは変わらないでくれと願ってしまう。その作用が郷愁なのだろうか。答えは数年後に待ちたい。