日々の雑感

私が毎日見たり聞いたりしたものに対して思ったことを書き連ねていきます。

女の子の19歳最強仮説

この記事は100%根拠のない妄想なのだが、女の子が最強なのは19歳の時だと思う。この19歳というのは観念上の19歳であって、必ずしも実際の年齢上の19歳を指すとは限らないということは事前に了解してほしい。

19歳とは何を指すのか

さて、この仮説であるが、まず19歳の定義から入りたい。私が思うに、19歳というのは始まりの年であり、終わりの年でもある。

6-3-3制が取られている現代日本社会では、何事もなければ18歳には高等学校を卒業し大学等に進学、若しくは勉強を継続するか、高等専門学校であれば単に進級するか、就職をするか、そうでなければ非就学、非就業の者として統計の一つになる。いずれにせよ、それまで親の庇護下、強い校則の規制下にあった若者が社会へ解き放たれる。今般の法改正により成人年齢が18歳へと引き下げられたこともこれを後押しする。また、最後のティーンとしてそれまでの人生が試されるのも19歳である。これ以降の年齢になるとより社会にアジャストしていくいわゆる社会人として内的な変化が不可避となる。漸次の変化であるとはいえ、最もピュアにティーンの心を持っていられるのは19歳であろう。

つまり、社会とのつながりの中で物理的な自由を手にした精神的に最も自由な存在が19歳なのである。彼らは成長したが故の物理的・経済的自由を若さゆえの自由で無鉄砲な心で謳歌している。

アンビバレント

上記のような存在を無知で醜悪なものであると考える者もいるかもしれない。しかし、それは少々結果としての行動に注意が行き過ぎている考えである。むしろ私は行動の前提にある精神態度に注目する。時にやりすぎとも思われる行動をとるのは彼らの精神がアンビバレントな観念を抱いているからである。つまり、若さが失われゆくという実感から来る焦燥感と、若さ・無知から来る自己肥大による無敵感の2つである。これらは互いに互いを刺激しあい暴走とも取れるような精神の飛躍を見せる。私はそこに美しさを見出す。古来から矛盾と相克は人間を惹きつける大きな要因であるので少し考えてもらえば私の立場も納得できるはずだ。そして、前提が違えば結果も違うように、私にとって彼らの行動は美しさの発露である。

なぜ「女の子」か

美しさの発露をなぜ女性に限定するのか、述べていきたい。昨今はジェンダー論も社会へ浸透し、当たり前の観念となっているが、やはり男女の間には大きな相違があると考える。(しかしそもそもが適当に考えた論理なのでその手の反論は困っちゃうからやめてほしい)

 女性は美を優先的に享受している。化粧品や香水、服飾といった身体を着飾るものは女性を中心として進化してきた。これは女性は美しくなければならないということを意味しているのではなくて、女性は美に慣れ親しんでいるということを意味する。これも社会の圧力によってそう選択せざるを得なかったということであろうが、しかし事実として女性の方が一般的に美への感性は研ぎ澄まされている。これが私が「女の子」に限定している理由である。もちろんこの限定も排他的なものでなく、選択的なものであるということは承知してほしい。

美しさ=最強

 最後になるが、最強とはどういった意図であるかの説明を行って本稿を締めたい。最強というのは、文字通り最も強いということであるが、この強さの尺度は人を惹きつけるかどうか、かつ人を引き離すかどうかという2か所に置きたい。惹きつけるだけ惹きつけて本人もそれを受け入れるというのであればそれは慈愛であり、母性、親しみやすさにはなるが最強という語の含むどこか硬質な印象にはそぐわない。反対に単に人を引き離すだけというのであれば良くて孤高、普通は孤独、悪ければ孤立であり、これも違う。

美しさは、人を惹きつける。しかし、同時に人を遠ざけもする。「高嶺の花」という言葉で歴史的にもそれは証明されている。したがって、この解釈を取った場合、「最強」と「美しさ」は合致する。

よって、そういった美しさを伴う19歳の女の子は最強なのである。