日々の雑感

私が毎日見たり聞いたりしたものに対して思ったことを書き連ねていきます。

【書評】「ノーノー・ボーイ」 周縁への眼差し

みなさん、あけましておめでとうございます。

皆様におかれましては、もう正月休みも終え、それぞれの日常へ戻っていることと思います。私はといえば、期日ギリギリの課題を机に積んで、相変わらず布団の中でもぞもぞと暮らしております。

 

そういえば、最近聞いたんですが、「ブレードランナー」の舞台は2019年11月だそうですね。
年は改まって2020年。ネクサス6は月面労働から逃げ出さないし、これだけネットが発達した時代に去年リックデッカードがバウンティハンターとして活躍したという話も全く聞こえてきません。
それもそのはず。あれはSFですから、携帯電話の登場すら想定できなかったのに、そんな簡単に正しい未来予測なんてできるはずがありません。
だからどうしても、ファンタジーになってしまいます。
ファンタジーでないものを見たいなら、やはり確定している過去に目を向けるのが得策でしょう。
しかし、自分の思い描く過去の物語って本当に現実を描いているんでしょうか。

 

『ノーノー・ボーイ』(2016年、旬報社) 著者:ジョン・オカダ 訳者:川井龍介

 

No-No Boy (Classics of Asian American Literature)

No-No Boy (Classics of Asian American Literature)

  • 作者:John Okada,Lawson Fusao Inada
  • 出版社/メーカー: Univ of Washington Pr
  • 発売日: 1978/02/01
  • メディア: ペーパーバック
 

(原著は1957年に刊行されている)

1941年12月8日未明、アメリカ合衆国在住の日本人は突然、その市民としての地位を剥奪されてしまう。それまで、移り住んだ街で隣人として暮らしていたのが、敵国人として白い目を向けられるようになった。その後ほどなくして、日系人の収容所への移送が行われる。彼らにとって長い困難の始まりである。

「ノーノー・ボーイ」とは、収容所内で日系人に向けられた33の質問のうち、ある2つに「ノー」と答えた人々のこと。
つまり、その2つとは、「あなたはいかなる場所にあっても戦闘義務を果たすために合衆国軍隊に進んで奉仕する用意はあるか」
「あなたは無条件でアメリカ合衆国に忠誠を誓い、外国や国内のいかなる攻撃からも合衆国を守り、また、日本国天皇をはじめ、いかなる外国の政府・権力・組織に対しても忠誠を示さず服従もしない、と誓えるか」
以上のものである。
これらは日系人に日本国民であることをやめるよう言っているのに等しい。当然屈辱であったが、多くの者がこれを呑んだ。

 

主人公のイチローは「ノーノー・ボーイ」である。彼が25歳の誕生日を過ぎたころ、「ノーノー」の廉で打ち込まれた刑務所からシアトルへ帰ってきたところから物語は始まる。

日常へ回帰した彼を待ち受けていたのは、辛い仕打ちであった。久しぶりに会った友人も、たった一人の兄弟も、彼が「ノーノー・ボーイ」であることを知ると、軽蔑の目を向ける。全体の地位向上のため、命を賭して母国と闘う覚悟を持った人間、それが日系人アイデンティティであった。それを揺るがすようなものは疎まれてもしょうがない。

反対に、イチローの母は狂信的に日本を崇めており、日本の勝利を信じて疑わない。いわゆる「勝ち組」であった。
家族さえ頼れず、行き場をなくしたイチローは、自分が何者であるか、苦悩し、閉塞感に苛まれながらも、生きていく手掛かりを見つけていく。

 

周縁に生きるもの

戦後ニッポン。太平洋戦争で敗北を喫した日本は、焼け野原からの再スタートを余儀なくされた。物不足にあえぎ、苦しみながらも日本人はモーレツに働き、たった30年ほどで、「ジャパンアズナンバーワン」と言われるまでに成長した。少し歴史に詳しい人がいれば、「日系アメリカ人で構成された442連隊っていうのがいて」と戦後アメリカでの日本人の地位向上も語るだろう。
それが私たちの持っている日本人の記憶、大きな物語
本来連続的な世界を差異化、不連続化し、断絶する。そうすることによってこの物語は生き続けている。
『ノーノー・ボーイ』は、そこからこぼれた世界を、当事者の目線からまざまざと描いている。著者のジョン・オカダは日系アメリカ人2世。太平洋戦争時、自身はアメリカ軍属であったが、やはり身近にイチローの様な人間を見てきたのだろう。

「日本人」というカテゴリーがあるとして、そのマジョリティは単一民族国家発言にも表れているように、本土(さらに言えば、東京)居住のヤマト民族である。私の故郷九州でさえ、若干マイノリティ寄りではあるが、それがアメリカ居住の日本人となれば、更に肩身が狭いであろう。ではアメリカンジャパニーズは単一であるかというと、そうでもない。その中でさえ、階層構造になっている。
そうしてみてみると、「ノーノー・ボーイ」は「日本人」というカテゴリーの中で最周縁化された人々であるということができる。最周縁化された人々は、多くが世界から見捨てられる。私たちが意識して目を向けないと、その存在すら認識できないことがある。近年では、日本国内においてもかなり多くの日系人や外国籍の人間が労働者として働いている。行政の云々はここでは置いておくとして、私たち一般市民の感情の上で、そこへ意識が向いているであろうか。

私自身の実感としては、自戒の意味も込めて「ノー」である。殊更に差異を強調して締め出してしまってはいないか。その状態を放置するのはとんでもなく罪なことではないのか。私たちは気付かねばならない。本書をその一助としたい。