日々の雑感

私が毎日見たり聞いたりしたものに対して思ったことを書き連ねていきます。

【書評】「バーナード嬢曰く」 読書態度について寛容であること

みなさん、こんにちは。読書してますか?

なんか最近ド嬢がまたバズバズにバズってるのを見かけました。

良いですよね。ド嬢。

 

『バーナード嬢曰く』 著者 施川ユウキ

 

バーナード嬢曰く。: 1 (REXコミックス)

バーナード嬢曰く。: 1 (REXコミックス)

 

 

主人公・町田さわ子は読書家ぶりたいが本を読むのは面倒くさい女子高生で、自分のことをバーナード・ショーをもじってバーナード嬢(ド嬢)と自称しています。
そんな彼女が、神経質でSFファンの神林しおり、図書委員でシャーロキアンの長谷川スミカ、唯一の男子でひと昔前に流行った本を読むのが趣味の遠藤君といった仲間といつも図書館に集まり、共に本についてくだらない話を繰り広げます。

 

基本的には実際の本を取り上げる1話完結のギャグストーリ—で、読書家でなくても読んでいて「あるある」と笑ってしまいます。ド嬢のぐーたらな言動にも共感できるし、反対に神林の熱いSF論にも長谷川のホームズ論にも共感できる、そんなバランス感覚の良さも魅力です。
取り扱っている本のジャンルも幅広く、読書経験の少ない人でも分かる部分があると思いますし、そもそも本を読むのが面倒くさいという人にも、ド嬢が代弁してくれるので安心です。寧ろ本を読まなくても読んだ感じにできるのでお勧めです。
SFの話になるとつい早口で滔々とまくし立ててしまう神林しおりをはじめ、どのキャラも一癖も二癖もあり、キャラクターものとしても面白いです。
また、作者の施川ユウキは著書の『銀河の死なない子供たちへ』で「このマンガがすごい!」賞の1位を獲得しているように、ストーリーテリングの才能も有り、本作もギャグマンガとしてだけではなく、本好きな高校生が図書館に集まってかけがえのない、文科系の青春を過ごす、『the perks of being a wallflower』でさえあるような青春ものとしても読めます。輝かしくはないのかもしれないけれど、でもこんな青春もあっていいじゃないか、とそう思えます。
とにかく、笑えて本の知識も増え、時々切ない気持ちにもなれる良作漫画です。読んだら読書をしてみたくなること請け合いです。

【書評】「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」 よくよく考えたら電気羊ってどういうセンスだよ

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 著者 フィリップ・K・ディック 訳者 浅倉久志

 

 

言わずと知れた古典SFの名作である。内容は知らずとも、タイトルには聞き覚えがあるという人は多いかもしれない。
もし知らないとしても、映画『ブレードランナー』の原作と言えばピンと来るだろう。
主人公・リック・デッカードはサンフランシスコ警察に所属する賞金稼ぎで、逃げ出したアンドロイドを始末して生活している。彼は本物の生物を飼うのがステータスとされているこの世界で、お金が足りず、人口の電気羊を飼っており、劣等感を抱いている。
そんな中火星で作業をしていた新型アンドロイドネクサス6型が逃亡し地球に侵入するという事件が起こる。この事件を追うことになったデッカードは、様々なアンドロイドと交流し、世界の真実を見ることで、心境が変化してゆく。

 

今でこそフィリップ・K・ディックは有名作家であるが、生前は科学的考証の甘さや、用いるSFモチーフのキッチュさチープさがあり今ほど評価されていなかった。
しかし時代が進んでいくにつれ段々受け入れられ、著作が何度も映像化されるまでになった。
ディック作品に共通する「今自分がいるこの現実がいとも簡単に崩れ去っていしまう感覚」は本作にも健在で、人間だと思っていた者がアンドロイドであったり、またその逆であったり、強固だと思っていた組織が虚構のものであると分かったり。何度も揺さぶりをかけられる。
また本作では人間とアンドロイドの違いは共感能力(empathy)だけであるとしているのも特徴のひとつ。


ディック的感覚が受け入れられたのは、複雑化する社会状況の中で人々がそれまで信じていた大きいもの(政治体制や自分たちの正しさ)に裏切られる経験をしたからだ、と言われることがある。
私たちも、何が正しいのか分からない現代社会に生きている。ディック的感覚を持って、社会を疑ってみるのもいいかもしれない。

【書評】「多数決を疑う 社会的選択理論とは何か」 公正な世界を求めていく上で避けては通れないこと

みなさん、こんにちは。

突然ですが、林檎と梨、どちらがより人気か、そろそろ決着つけませんか。

甘いから林檎の方が好き?シャキシャキしてるから梨の方が好き?人それぞれ好みの理由はあると思いますが、そんなもんは聞いてないんです。

数です。数を聞いているんです。

 

「社会制度は天や自然から与えられるものではなく、人間が作るものだ」と述べたのは18世紀に活躍したフランスの思想家ルソーである。彼は国家のあり方について多くの持論を展開した。
その中でも特に有名なのが「社会契約論」に記された人民主権であろう。彼は国民は他人との関係において互いに平等な社会契約を結ぶことによって一つの社会を構成しており、その様々な人間の集合体が一つの人民であるとした。そして個々の利益とは離れた人民全体の利益について熟慮しどのような行動をとるべきかを決定するのが一般意志であると考えた。よって政治の決定が最も一般意志に近づくのが直接民主制であり、少数派がその決定に従わなければならないのも多数派が勝利したからではなく自分が誤った一般意志を想定していたからである。
ここには理論上の民主制の理想形が掲げられており、未だかつてこの理想を実現した社会はない。

ところで、私たちが現行の社会制度に対し疑問を呈したときによく返される言葉がある。「法律で決まったことだから」「選挙で決まったことだから」「多数決できめたから」「民意だから」などがそれだ。
しかし、本当にそれは返す言葉として正しいのだろうか。つまり、本当に実質的な民主制が担保されたものなのだろうか。

 

 

『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』 著:坂井豊貴 (岩波新書)

 

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

 

 

「社会的選択理論」という社会科学の学問分野がある。社会が意思決定を行うときにどのような選択方法を取ればよいのかを探求していく学問で、多くは投票ルールを考えるものである。非常に数理的な分野であり、詳しく理解するには高度な数学的素養が必要となる。
本書はそういった社会的選択理論の入門といえる内容であり、数理的な説明をできるだけ排除した理論の概説と具体例から始まり、途中民主政治の根本に立ち返りつつ現代日本に存在する諸問題へと発展していく。
様々な投票方式が紹介されているが、本書で特に扱われているのはボルダルールとコンドルセ・ヤングの最尤法の二つである。ボルダとコンドルセは両者とも18世紀フランスの数学者である。長くなるので、詳細は本書を読むなりキーワードで調べるなりで各自理解してほしい。

 

私見

「多数決で決めようぜ」という言葉は私たちが議論に行き詰ったことによく発せられる。いわば個人的な範囲では絶対的な信頼性を持った集団の行動決定手法である。
それを疑おうとはなんと恐れ多い、と思う方も多いだろう。私自身もそういった印象から本書を手に取った。
するとそこには、私が今まで考えてこなかった広い思考の平原が広がっていた。
ペア敗者という考え方は多数決の欠陥を理解するのに大変役に立ったし、複数の候補の中で順位が決まらないサイクルの概念とそれを打破してゆくプロセスは大変興味深かった。
また日本は行政法の整備が未熟であるとよく言われているが、それをこうも理論的に説明されていくと最早笑うしかない。
ただもちろん多数決を完全に否定するのではなく、種々の事情を勘案したうえでその場ではどれが最もふさわしいかを選んでいくというのが基本スタンスだ。
しかし、著者は現行の規定では国民の一般意志が正しく反映されないと考えている。形式的な民主制が日本社会に確立しているためにそれが本当に民意を反映していないときに反対の声を上げる人間が非民主的な人間だといわれてしまう。そういった事態も起こりうるというのだ。

個人的に最も面白かったのは、憲法改正についてである。現行憲法では憲法改正の発議には衆参両議院で三分の二以上の賛成を得たうえで国民投票過半数の賛成を獲得しなければならない。
社会的選択理論には64パーセント多数決ルールというのがあり、64パーセントの賛成を得れば殆ど満場一致に近いというものだ。それを考えると三分の二を求める改正手続きは妥当なように思える。
ところが、そうではなく、現行の規定では緩すぎるというのだ。

その理由は、ここで書いてもいいけれども、やはり是非自分の目で確かめてほしい。

【書評】「タタール人の砂漠」 流されるままに生きて

みなさん、こんにちは。目的意識、持ってますか?

私は持っていません。

最近、YouTubeを見ているとオススメ欄に自己啓発ハゲの「ビジネスマンに大事なこと」みたいな動画がよく現れて、見かけるたびに削除しているんですが、全然消えてくれません。

何なんでしょうね、あれ。

まあしかし、残念ながらあのハゲの言うことの方が正しいんでしょうね。

これまでの人生、怠惰かつ臆病な性格で良い事なんて何一つありませんでしたから。carpe diemが身に染みます。

 

 

タタール人の砂漠」ブッツァーティ作 脇功訳  岩波文庫

 

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

 

 


士官学校を卒業したばかりの主人公ジョバンニ・ドローゴは、中尉として最初の赴任地バスティアーニ砦へ向かう準備をしていた。そこは、荒涼とした砂漠に面した山岳地帯に作られた古ぼけた砦である。
最早攻めてくる敵も訪ねてくる隊商もおらず、その本来的な役割が果たされぬまま長い年月が経ち、いつしか砦の兵士や将校は北方に面した砂漠をタタール人の砂漠と呼び、いつ来るとも知れぬタタール人という見知らぬ敵を待つようになっていた。
輝かしい軍人人生を待ち望んでいたドローゴは、赴任初日に砦を去ろうとするが、上官に止められ4か月間はそこに留まることになった。それが彼の人生の大きな転換点となった。
4か月という月日は閉鎖空間での退屈な生活を日常にしてしまうには十分な長さで、結局4か月経っても彼は砦に残ることを選択した。
つまり、ここへいてはいけないという強い不安を感じながらも、それとはアンビバレントに、先の見えない大きな変化よりも、規則的な繰り返しの中で(傍から見ると馬鹿げた)期待を抱き続けることを望んだ。
加速度的に速くなる「時の遁走」が彼の青春時代を着実に奪っていっているとは知らずに。

 

非日常の希求

この本はイタリアの記者、作家であるディーノ・ブッツァーティによって1940年に上梓されたものです。20世紀の幻想文学の古典的名作に数えられ、その寓話性、普遍性から幅広い支持を得ています。
実際、タタール人の砂漠も時折出てくる工学的なワードに目をつむれば、どの時代にも当てはまるような作品になっています。そのことによって、この作品に描かれているテーマは、ブッツァーティの生きた世界とは空間、時間的に遠く離れた私たちにも身近なように受け止められるのです。

物語は、主人公のドローゴがバスティアーニ砦へ向かうその当日から始まります。そして終わりは、ドローゴの死です。
通常人の一生を物語にするといった場合、何か劇的な展開やラブロマンスが想起されますが、本作品は違います。全てがあくまで淡々と、静かに進んでいき、俄かに盛り上がりかけたかと思うと一気にしぼんでしまって、それが最後まで続きます。
彼のもとには何度もチャンスが訪れます。
しかし彼はタタール人の襲来という期待(恐らくは彼が全く無駄な時間を過ごしたということを否定する拠り所)を捨てきれなかったためにそれを不意にします。その度にまだ若いからいくらでもやり直せると自分に言い聞かせますが、年月は確実に進み、彼の内心の不安もどんどん大きくなります。
読み進めていくと、肝心なところでの彼の無気力とも臆病ともとれる態度に歯がゆい思いがしますが、我々は本当に彼を詰ることができるでしょうか。
会社や学校などで日々の仕事を繰り返しているうちに、望んでいた”何か”がやってくることを期待していないと、どうして言えるでしょうか。現在の日常の小さな満足感を喪失するのが怖くて、大きな挑戦をするのを躊躇うことはないと、どうして言えるでしょうか。

作者が「時の遁走」と呼ぶ時間の特質、同年代との比較、二度と戻らない過去への後悔、長い時間が降ろす旧友や故郷との間の厚いベール、自分が何もなせないまま老いていくのではないかという焦燥感、それら全てが、逆転されうべき非日常の何かへの期待を抱かせることによって逆説的に我々を日常へと縛り付け、身動きを取れなくしてしまいます。本作のドローゴの様に悲劇的にとまではいかずとも、多かれ少なかれ人生にはその様な面があると私は考えています。それは必ずしも否定されるべきものではなく、上手く付き合っていくものだとも考えます。

この物語を読み終えた時に胸に去来する感情は、その時々の年齢によって変わると思いますが、この本の1ページ目にすらまだ達していない中学生にも、既に中盤に差し掛かった大人にも、終わりを見据えているご年配の方にも誰にも大きな意味を持つものだと思います。そしてその後に、自分の人生を見直してみたり、誰かと語らいたくなるでしょう。
何を隠そう、私もものすごく語り合いたいので、皆さんにぜひ読んでほしいのです。

【書評】「ノーノー・ボーイ」 周縁への眼差し

みなさん、あけましておめでとうございます。

皆様におかれましては、もう正月休みも終え、それぞれの日常へ戻っていることと思います。私はといえば、期日ギリギリの課題を机に積んで、相変わらず布団の中でもぞもぞと暮らしております。

 

そういえば、最近聞いたんですが、「ブレードランナー」の舞台は2019年11月だそうですね。
年は改まって2020年。ネクサス6は月面労働から逃げ出さないし、これだけネットが発達した時代に去年リックデッカードがバウンティハンターとして活躍したという話も全く聞こえてきません。
それもそのはず。あれはSFですから、携帯電話の登場すら想定できなかったのに、そんな簡単に正しい未来予測なんてできるはずがありません。
だからどうしても、ファンタジーになってしまいます。
ファンタジーでないものを見たいなら、やはり確定している過去に目を向けるのが得策でしょう。
しかし、自分の思い描く過去の物語って本当に現実を描いているんでしょうか。

 

『ノーノー・ボーイ』(2016年、旬報社) 著者:ジョン・オカダ 訳者:川井龍介

 

No-No Boy (Classics of Asian American Literature)

No-No Boy (Classics of Asian American Literature)

  • 作者:John Okada,Lawson Fusao Inada
  • 出版社/メーカー: Univ of Washington Pr
  • 発売日: 1978/02/01
  • メディア: ペーパーバック
 

(原著は1957年に刊行されている)

1941年12月8日未明、アメリカ合衆国在住の日本人は突然、その市民としての地位を剥奪されてしまう。それまで、移り住んだ街で隣人として暮らしていたのが、敵国人として白い目を向けられるようになった。その後ほどなくして、日系人の収容所への移送が行われる。彼らにとって長い困難の始まりである。

「ノーノー・ボーイ」とは、収容所内で日系人に向けられた33の質問のうち、ある2つに「ノー」と答えた人々のこと。
つまり、その2つとは、「あなたはいかなる場所にあっても戦闘義務を果たすために合衆国軍隊に進んで奉仕する用意はあるか」
「あなたは無条件でアメリカ合衆国に忠誠を誓い、外国や国内のいかなる攻撃からも合衆国を守り、また、日本国天皇をはじめ、いかなる外国の政府・権力・組織に対しても忠誠を示さず服従もしない、と誓えるか」
以上のものである。
これらは日系人に日本国民であることをやめるよう言っているのに等しい。当然屈辱であったが、多くの者がこれを呑んだ。

 

主人公のイチローは「ノーノー・ボーイ」である。彼が25歳の誕生日を過ぎたころ、「ノーノー」の廉で打ち込まれた刑務所からシアトルへ帰ってきたところから物語は始まる。

日常へ回帰した彼を待ち受けていたのは、辛い仕打ちであった。久しぶりに会った友人も、たった一人の兄弟も、彼が「ノーノー・ボーイ」であることを知ると、軽蔑の目を向ける。全体の地位向上のため、命を賭して母国と闘う覚悟を持った人間、それが日系人アイデンティティであった。それを揺るがすようなものは疎まれてもしょうがない。

反対に、イチローの母は狂信的に日本を崇めており、日本の勝利を信じて疑わない。いわゆる「勝ち組」であった。
家族さえ頼れず、行き場をなくしたイチローは、自分が何者であるか、苦悩し、閉塞感に苛まれながらも、生きていく手掛かりを見つけていく。

 

周縁に生きるもの

戦後ニッポン。太平洋戦争で敗北を喫した日本は、焼け野原からの再スタートを余儀なくされた。物不足にあえぎ、苦しみながらも日本人はモーレツに働き、たった30年ほどで、「ジャパンアズナンバーワン」と言われるまでに成長した。少し歴史に詳しい人がいれば、「日系アメリカ人で構成された442連隊っていうのがいて」と戦後アメリカでの日本人の地位向上も語るだろう。
それが私たちの持っている日本人の記憶、大きな物語
本来連続的な世界を差異化、不連続化し、断絶する。そうすることによってこの物語は生き続けている。
『ノーノー・ボーイ』は、そこからこぼれた世界を、当事者の目線からまざまざと描いている。著者のジョン・オカダは日系アメリカ人2世。太平洋戦争時、自身はアメリカ軍属であったが、やはり身近にイチローの様な人間を見てきたのだろう。

「日本人」というカテゴリーがあるとして、そのマジョリティは単一民族国家発言にも表れているように、本土(さらに言えば、東京)居住のヤマト民族である。私の故郷九州でさえ、若干マイノリティ寄りではあるが、それがアメリカ居住の日本人となれば、更に肩身が狭いであろう。ではアメリカンジャパニーズは単一であるかというと、そうでもない。その中でさえ、階層構造になっている。
そうしてみてみると、「ノーノー・ボーイ」は「日本人」というカテゴリーの中で最周縁化された人々であるということができる。最周縁化された人々は、多くが世界から見捨てられる。私たちが意識して目を向けないと、その存在すら認識できないことがある。近年では、日本国内においてもかなり多くの日系人や外国籍の人間が労働者として働いている。行政の云々はここでは置いておくとして、私たち一般市民の感情の上で、そこへ意識が向いているであろうか。

私自身の実感としては、自戒の意味も込めて「ノー」である。殊更に差異を強調して締め出してしまってはいないか。その状態を放置するのはとんでもなく罪なことではないのか。私たちは気付かねばならない。本書をその一助としたい。

【書評】「空気の研究」 私たちを支配するもの

みなさん、こんにちは。風邪などひかれておりませんか?

最近はすっかり寒くなり、きちんと寝るときに暖かくしておかないと家の中で凍え死んでしまいそうです。また、ついこの間までクリスマスだ大晦日だ正月だと街が寒さに負けないお祭りムードに包まれていたのに、ここ数日は皆それを忘れ去ってしまったかの様にお寒い空気が漂っています。
ところで、空気ってなんでしょう。
もちろん流体力学的なソレではありません。会話でよく使われるアレです。
大雑把に定義すると、私たちは場に流れる目には見えない共通の認識、感情のようなものを空気と呼んでいます。
が、その実態についてよく知らずに過ごしている者が私を含め多数派ではないかと思います。
しかしそれで良いのでしょうか。私にはどうしてもそうは思えません。空気に支配されて自分の考えを持たないのは嫌です。

そこで本日は、その「空気」に関して考察した本を一冊ご紹介します。

 

 

『「空気」の研究』著者:山本七平

 

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

 

 

日本人はしばしば「いや、あの時の空気ではそうせざるを得なかったんだ」と過去の失敗を語ります。
それは太平洋戦争時の旧日本軍に特に顕著に見られ、当時日本屈指のエリートが揃っていたはずの海軍でさえ、負けるとわかっている戦いにむざむざ挑んでしまった。
戦後、軍部は解体され、天皇人間宣言とともに皇国は終わりました。
しかし、その後民主主義体制へと変貌した日本においても政治、経済など様々な分野において上記の「空気」という言葉は横行し続けます。

無責任の体系とも称されるその社会構造を、この本では著者が鋭く評論していきます。
特に、ある対象について善悪の度合いで測るといった相対的な把握をせず、善性のみを認める絶対的な把握をしてしまうと、空気に逆らえなくなってしまうという記述は身につまされます。
他にも、空気は誰が何故生むのか、発生した空気に支配されない方法、日本社会がどのように進んできたか、反対に空気に支配されない社会とはどういうものかなどが詳細に書かれています。
ただ、これらはこの本の第1章に過ぎません。更に論考が進むのです。
本は全体で3つのパートに分けられ、それぞれ「空気の研究」、「水=通常性の研究」、「日本的根本主義について」と題されています。
「日本的根本主義について」はある程度内容的に独立していて、更に「空気」という考え方に関しても簡単に理解できると思うので、どこから読んでも良いと思います。
ともすると1983年刊行当時の時事問題を扱う第1章が最も読みづらいかもしれません。

 

日本人論的な要素を多く含むため、そういうカテゴリー化はどうなんだとも思わなくもないですが、今でも日本に存在する空気を正しく認識し、それを打ち破るためにも知っておいて損はない内容だと思います。
また、学校生活に悩んでいる生徒にもオススメできます。

留意しておく点としては、この本の論理には多少乱暴なところがあるので、本書の表現を借りれば、自身の経験を重ねて「臨在感的な把握」を行い、記述内容を「絶対化」することはしないで下さい。